運転を哲学する男 小林眞のコラム 84.自分の子ども事

 ~ 自分の子ども事 ~

 

私の知人に、自動車関連企業S社で、社員の安全と健康管理を担当している女性Oさんがいます。先日、私のコラムを読んでこんな意見を送ってくれました。

 

「よく弊社では、“何事も自分事と捉えて考える”と教えられますが、私は自分の事よりも子どものことを想うと、より気をつけようと思うのです。

交通事故や労災が起きたとき、ケガをしたのが、我が子だったらと思うとゾッとします。

なので、“自分の子ども事として考える”が正しいのではと思ったりします。

生活道路を走行中、もし、狭い道路から我が子が飛び出してくると思ったら、自分が優先でも、構えブレーキのノロノロ運転で、何度も左右を確認しながら進みます」

 

私は、こんな返事を送りました。

過失によって事故が発生します。しかし、それを「他人事」と考えているのでは、同じ過失によって、いつか誰かが事故を繰り返します。だから「自分事」として考えよう、という指導が必要になります。

では、指導しないと何故「他人事」と考えてしまうのか、というと、私たちの中に「自己過信(私は大丈夫という意識)」が存在するからです。

つまり、発生した事故を繰り返さないためには、私たちの中に存在する自己過信を払拭する必要があります。それが「自分事」としてとらえよう、という指導の内容です。

これらの指導は、内容に矛盾はなく、成立しています。しかし、その指導を受け止める側に「受け止めようとする意識」がないと、その効果は発揮できません。

私は、その「意識」を持たせることが何よりも大切であり、何よりも難しいと考えています。私が繰り返し交通安全の「価値」を考えようと提案しているのは、そこに理由があります。

 

「自分の子ども事」として考える。

それは、当事者意識という指導本来の趣旨とは少し視点がズレますが、彼女はそれを承知の上で、提案してくれたのだと思います。

例えば、自転車のヘルメットについて、女子高校生の「前髪が乱れるからイヤ!」という言葉を受け止める必要があり、「前髪と命とどっちが大切なのか?」と問い返すことでは解決できません。

私は、高校生に向けて、「あなたの命は、あなただけのものではない」と伝えました。

 

誰かの命は、その家族や友人・知人に支えられて存在します。

そして、すべての人が、互いに支え合う社会こそ、私たちが望んでいる安全な社会の姿なのだと考えています。

安全運転の出発点も同じです。歩行者を保護し、互いに譲り合う運転のことを安全運転というからです。

彼女のメールの最後に、こんな言葉がありました。

「被害者も誰かの大切な人」という考え方が大事ですよね……

そうです。そして、加害者もまた、誰かの大切な人、なのです。

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