運転を哲学する男 小林眞のコラム 54 . 知覧

メルマガコラム 54

~ 知覧 ~

 

鹿児島県に知覧という場所がある。第二次世界大戦末期、多くの若者がそこから飛び立ち、命を投げた。

40年ほど前、その知覧特攻平和会館を訪れた。そこで、死に行く若者の手紙を読みながら胸が詰まり、涙が止まらなくなった。

若者を死に追いやる社会、死ぬことが正義なのだと教える社会とは何だったのか。そして、私たちは、今日まで何を学んで生きてきたのか……。

 

既に戦争を知る人は少なくなった。私たちの世代も戦争を知らず、聞かされただけである。

戦争は、今も世界のどこかで繰り返されているが、戦争であれ、交通事故であれ、失われた命とは、等しく人の命である。

 

私たちが安全運転に努めるのは、交通事故でたくさんの人の命が失われたからではない。

交通事故は防ぐことができるからであり、交通死亡事故はほぼゼロにすることができるからである。

 

思想家のルソーは、「理性はゆっくりと歩いてくるが、偏見は群れをなして走ってくる」と語った。

理性とは、自動車を運転することの責任の重さを知り、安全運転を続けようとするその意思のことか。確かにその歩みはゆっくりとして、安全運転を習慣とするためには、相応の時間と努力が必要である。

そして、偏見とは、自己過信のことか。自分は大丈夫だと思い込み、自己過信のままに運転を続け、事故を起こしても運が悪かったと決めつける、そんなドライバーの群れのことか。

 

現代こそ、交通事故の重大性、運転することの義務と責任の重さを考える力が求められている。そして、それを安全運転という具体的な行動に変えていくことが必要である。

 

失われた命、奪われた命……。それを思うだけで、安全意識を失うことはない。止まること、譲り合うことの大切さが見えてくる。

40年という時を経て、知覧という場所の記憶が蘇り、「誠実に生きてきたか」と問いかける声が聞こえてくる。

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