メルマガコラム 48
~ 大人、子ども、老人 ~
私たちはこの世に生まれ、子どもの時代を過ごし、青年期を経て大人になった。
私たちは、大人が子どもを支え、社会が老人を支え、できる者ができない人を支える社会を夢見ていたはずである。そんな、支え合う社会の実現を期待していたはずである。
人は加齢によって心身は衰える。これは世の必然である。子どもは未熟で危うい存在であること、これは世の常である。しかし、高齢者がどれほど肉体的に衰えようと、精神的に衰えようと、人として尊重されるべきは、当然である。
死亡事故を減らすための対策として、高齢者に対して、夜は出歩くな、黒い服を着るな、反射材を身に付けろと呼びかける。しかし、それができないのが高齢者である。
これまで長い間、事故とは無縁で生きてきた。だから自分は大丈夫なのだと、加齢に伴って心身が衰える反面、自己過信は高まるばかりである。反射材もたくさんある、横断歩道も少し先にある、でも、ワシは大丈夫だと思い込み、黒い服のまま暗い道を横断しようとして事故にあう。
それが高齢者の現実であるならば、事故を避けるために必要なこととは、車が、ドライバーが気をつけることである。高齢者のできない部分を補うのはドライバーの役目である。
そのための方法など誰でも知っている。夜間は速度を抑え、ハイビームを活用することである。そうして前方を注視して運転していれば、大半の事故を防ぐことができる。
それは誰にでもできること。しかし、ほとんどのドライバーがそれすら実行しない。夜間、ロービームのまま速度違反の状態で漫然と運転を続け、歩行者を発見した時には止まることすらできず、歩行者をはね飛ばす。そして、私は運が悪かったと言い訳を繰り返す。
私たち、私たちの社会に不足しているものとは、知識ではなく、安全運転のための意識なのだ。死亡事故が起きたのは運が悪かったのではなく、避けられる事故を避ける運転を怠ったドライバー自身である。
安全意識を高め、安全運転によって守られるものとは、子どもや高齢者の命だけではなく、加害者となるドライバー自身の人生である。
大人と子どもと老人が互いを尊重し、できる者ができない者を支え合う、そして譲り合うことで成熟する安全な交通環境こそ、私たちが夢見ていた社会の姿である。そしてそれは、私たち自身の知識を意識に換えることによって実現することのできる、私たちの安全な交通環境であり、私たちが夢見てきた社会の姿である。