運転を哲学する男 小林眞のコラム 82.安全と便利さ

~ 安全と便利さ ~

 

過去のコラムで、「かつて、私たちの社会は、自動車の安全より便利さ(速度)を優先した。それが交通事故を激増させた要因であり、大きな誤りだった」と書いた。

しかし、その後、「便利さとは速度のことなのか?」という疑問が頭に浮かんだ。

これまで、安全で便利なはずの自動車が、現在もなお交通事故を繰り返すのは、安全であることよりも、その便利さを優先させたからだと考えていた。しかし、便利さとは、速度を上げることだけではないはずだと思い始めた。

 

自動車に乗って空を飛びたいと思っても、無理である。しかし、速度を上げてより早く走りたいという希望は、アクセルを踏むことによって実現できる。早く目的地に着きたいという願いも、事故を起こさない限り、速度を上げることで叶えることができる。

しかし、その願いとは何のことなのか。早く到着して時間を得たいと考え、その結果得られた時間とは何の価値を持つのか。

 

私たち一人ひとりの時間、生まれてから死ぬまでの時間は、生きている間は誰にもわからない。しかし、1日の時間は、誰にも同じ24時間である。

時間は常に流れ続け、限られている。だから、限られた時間を無駄にしたくないという気持ちが生まれる。しかし、目的地まで速度を上げて得られた時間によって、何が得られるのか。

反対に、目的地まで落ち着いた気持ちで安全運転を続けていた時間とは、無駄な時間だったというべきなのか。

 

出発が遅れて約束の時刻に間に合わない場合、多くのドライバーは、速度を上げて走り出す。

それでも、ほとんどの場合は事故を起こすこともないが、それは、安全であったという証明ではない。そして、それを成功体験として繰り返すことによって、いつか、誰かが事故を起こす。

その結果、人は傷付き、時にその命と家族の幸せが奪われ、ドライバーは人生を失う。

速度違反を批判しているのではない。そもそも、速度規制とは、人を処罰するために定められているのではなく、安全な交通環境を維持するための定めである。

出発が遅れたのであれば、遅刻する予定を正直に伝えて詫びること、これが誠実な対応である。

そして、安全運転によって防ぐことのできた事故件数など、誰にもわからない。しかし、その日の安全運転とは、決して無駄な空振りではない。将来の事故を防ぎ続けるために必要な、大切な素振りである。

安全運転が無駄になることはない。その価値を見つけることが難しいだけである。速度を上げて短縮できた時間で何を得ようと、落ち着いた安全運転の経験に勝るものはない。

 

自動車は、人の生活範囲を飛躍的に拡大し、経済を支え、私たちの人生を充実させてくれた。

自動車は、安全を優先しても、便利さを損なうことはない。安全性と便利さは、択一関係ではなく、矛盾するものではない。自動車の便利さとは、速度を上げて早く到着することではなく、安全であることによって発揮される自在性のことなのだ。

自動車とは、安全であることによって、はじめて、そのすべての機能を発揮することができるものであり、私たちが安全運転に努めるもうひとつの理由がここにある。

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