運転を哲学する男 小林眞のコラム 67.~故意・過失・結果~

いまだに飲酒運転はなくならず、「ながら運転」は減る様子もない。
交通事故は過失の結果であるが、飲酒運転や「ながら運転」は故意である。自らの意思で避けることのできた事故を発生させた罪は重い。
その罰をどれほど重くしても、失われた命が帰ってくることはない。                                                      そして、失われた命とその家族にとって、罰としての拘禁刑が3年なのか5年なのかなど、ほとんど価値がない。

飲酒運転や「ながら運転」、そんな身勝手な運転が許されないことなど、誰でも知っている。                                              しかし、これくらいの酒なら大丈夫、ゲームをしていても事故などしないなど、根拠のない自己過信に身を委ねて運転を続けているドライバーは少なくない。
そして、事故を起こした後も、あれは運が悪かった、相手も悪かったと自己弁護を重ね、事故後も同じ運転を繰り返すドライバーすら存在する。

飲酒運転による交通事故は減少したが、それは事故全体が減少していることに伴うものであり、飲酒運転による事故の割合は減少していない。
「ながら運転」はいつでも簡単に見つけることができる。                                                                 そして、飲酒運転は誰もが強く批判するが、「ながら運転」には同情的、寛容な意見を耳にすることがある。                                              しかし、それが重大な交通事故の原因となる点においては同罪であり、「ながら運転」はこれまで以上に厳しく批判されるべきである。

そして、忘れてはならないことがある。
それは、飲酒運転や「ながら運転」のような悪質な運転でなくても、ごく普通の運転によって、                                             誰もが犯してしまうほどの過失によって、時に死亡事故は発生しているという事実である。
飲酒運転や「ながら運転」は言語道断。
しかし、それを非難する私たちは、本当の安全運転をしているかと、改めて自らの運転を省みる必要がある。

飲酒運転や「ながら運転」を厳しく戒めるのと同時に、私たちは、死亡事故の多くがありふれた過失の結果として発生している現実を忘れてはならない。
悪質な、故意ともいうべき運転によって引き起こされた事故も、ありふれたわずかな過失によって発生した事故も、                                     その結果、失われた命は同じである。ご家族の怒りの強さこそ異なれ、その悲しみは同じである。

交通事故を減らすために必要なものとは知識ではない。                                                             私たちに不足しているのは、交通事故の現実について深く考え、安全運転を実行しようとする意志である。

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