運転を哲学する男 小林眞のコラム 65.手間

~手間~

平成の終わり頃、K警察署管内では振り込め詐欺の被害が続発していた。当時の手口は、金融機関で現金を下して送金させるというものであり、窓口で止めることが最大の対策であった。

金融機関も協力してくれていたが、多額の現金を下ろす理由について、預金者が「リフォームする」「車を購入する」と説明すれば、窓口では拒否できず、被害は急増していた。

その被害を防ぐために残された方法とは、預金者に対して警察官が直接確認することだった。しかし、そのためには、金融機関から直ちに通報してもらい、警察官が到着するまで預金者を待たせることが必要となる。

金融機関への通報依頼の説明会がK警察署の講堂で開かれた。そこに集まった金融機関の支店長等は、誰もが不満を募らせていた。
署長の説明が終わるとすぐに反対意見が出た。

「それはお客様を長時間待たせることになる。大半は被害者ではないお客様であり、支店レベルでは苦情に対応できない。少なくとも県下で統一してほしい」

K署長は答えた。

「通報依頼は、警察署長の私から支店長の皆さんへの協力依頼にすぎません。ご協力いただけずに被害が発生した場合は、その旨をマスコミに伝えます。支店長として、預金者の便宜を優先して通報しなかったことを説明してください。私の通報依頼と支店長である皆さんの判断と、市民や預金者がどちらを支持するか、その時にわかります」

それまで黙って聞いていた有力金融機関の支店長は、腕を組んだまま言った。

「署長!私たちにけんかを売る気ですか?」

しかし、署長は譲らなかった。

「振り込め詐欺の被害とはお金ではありません。その犯罪によって、これまで誠実に生きてきた高齢者の人生が奪われるのです。お金を守るのではなく、人の人生を守るために、私は警察署長として協力をお願いしているのです」

その後、通報は増え、1日に10件を超えることもあった。そのたびに、交番、パトカー、生活安全や刑事の警察官が金融機関に走り、待たせたことを詫びながら預金の使途を確認した。その結果、約2%は本当に騙されていた被害者だった。

その2%の評価を新聞記者から問われた時、K署長は答えた。

「預金者や金融機関の皆さんには、大変な負担をかけています。しかし、私たちの社会が守るべきは高齢者の人生なのですから、守ることのできる人生がある限り、2%が0.2%になっても私はこの対策を止めるつもりはありません」

さて、私たちは交通事故を防ぐために、どれほどの手間(コスト)をかけているのでしょうか。命を守るためのコストは無限大とはいえ、日々運転する中で払うことのできる注意力(コスト)には限界があります。しかし、「みんなと同じで大丈夫」、事故を起こしても「運が悪かった」「相手も悪いんだから仕方がない」という考え方ではあまりにも不十分、事故を減らすことなどできません。
運転中にどれほどの注意を払うべきか、それは自分自身で決めることですが、運転中の注意力(コスト)とは、私たち自身が考えている命の重さに比例しているのです。

 

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